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JR伊丹駅
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JR伊丹駅をスタートする方は、改札を出て左へ、そのまま陸橋を渡って右へエスカレータを下り、向かい側の石段を上ったところが、有岡城跡の一部です。
まず(1)有岡城跡を見て、次に(2)伊丹町道路元標、(3)堀跡、(4)猪名野神社を経て、右回りに遺構を辿ります。
では、(1)有岡城跡へお進み下さい。 |
| 出発 |
阪急伊丹駅
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阪急伊丹駅をスタートする方は、3階に電車が着きますから改札を出て左へ、エスカレータを1階まで下り、正面のタクシー乗り場を見ながら右に曲がります。建物に沿って、さらに右に曲がります。バス乗り場が並んでいる中ほどに、横断歩道の信号が見えてきます。
その信号を渡り、真っ直ぐ商店街を抜けます。
少し開けたところに出ますが、それが三軒寺広場です。その広場の奥の右手に大手柄酒造の建物があり、その手前に(2)堀跡の説明板があります。
堀跡を見たあと、(4)猪名野神社を経て、右回りに遺構を辿ります。途中で(1)有岡城跡を見学ください。
では、(3)有岡城の堀跡へお進み下さい。 |
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有岡城跡
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14世紀ごろから、およそ300年にわたり伊丹氏が、猪名川の西岸に築いた伊丹城に居住しました。
戦国時代、天正2年(1574)伊丹氏が滅び、そのあと伊丹城に入ったのは、織田信長の武将荒木村重で、伊丹城は有岡城と改称されました。
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惣構え城郭と郷町
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村重が築城した有岡城は、城下町を城郭の中に取り込んで、東に主郭部分、北端には岸の砦、南端には鵯塚砦、西には上臈塚砦を配して、堀と土塁で囲んだ惣構えと言われる築城法でした。
その後、惣構え築城法は安土城、大坂城でも見られるようになりましたが、村重の有岡城は、それに先んじており、最も古い惣構え城の一つと言われています。
有岡城の主郭部分は、JR伊丹駅周辺にあり、土塁、石垣の一部が見られます。
岸の砦(または野宮砦)は、猪名野神社にあり、境内の北の隅には、今も砦の土塁の跡が残っています。
鵯塚砦は現在、伊丹7丁目の個人所有のマンションの敷地内に現存しています。
上臈塚砦は、伊丹シティホテル辺りにあったと推測されています。
天正7年(1579)有岡城が落城して以後は、廃城となり、江戸時代は「古城山」と呼ばれていました。
この地はその後、豊臣氏の直轄領となり、つづいて徳川幕府の直轄領を経て、近衛家領となります。
伊丹郷町は、掘割で囲まれた台地の上を中心に形成され、城塞の町から産業の町に変貌していきました。 |
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有岡城跡の石段を下りて右(西)へ、遊歩道を歩いてゆくと間もなく4車線の県道尼崎池田線(通称:産業道路)に出ます。信号の手前右側に、堀跡(復元)が展示されています。 |
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堀跡(復元)
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現在ニトリの建物がありますが、「伊丹郷町」時代の遺構や、「有岡城」時代の遺構が、発掘作業で確認されています。
左の写真は、発掘作業中の「伊丹郷町」時代の堀跡です。 |
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信号を渡ると、左側が白雪の小西酒造本社の建物です。その外塀の角に、伊丹町道路元標があります。 |
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伊丹町道路元標
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「伊丹町道路元標」と刻まれた石柱は、この場所が「兵庫県川辺郡伊丹町」の中心であることを示した標識です。このあたり一帯は、古くから「本町」という地名でした。
この標識のすぐ南側(現在の小西酒造株式会社の敷地内)に、明治12年(1879)、川辺郡の郡役所が設置されました。当時、「伊丹町」は、川辺郡(猪名川町・川西市・伊丹市の全域と宝塚市・尼崎市の東部)の”首都”だったのです。
なお、この産業道路(旧呼称「本町通り」)の付近一帯は江戸時代、日本一の”酒づくりの町”として栄えました。そのころ、この四つ辻は、高札が掲げられる札場でした。ここは、「旧伊丹郷町」の中心でもあったわけです。 |
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右側の白雪の長寿蔵を見ながら、さらに真っ直ぐ進むと、一段と開けたところに出ます。ここが三軒寺広場(大蓮寺、正善寺、法巌寺が並んだ門前にあります。)です。広場入り口左側に大手柄酒造があり、そこを左(南)に曲がると説明板が設置されています。 |
| (3) |
有岡城の堀跡
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荒木村重は有岡城を、城、侍町、城下町の周囲を土塁や堀で町ぐるみを城塞化した惣構えと呼ばれる構造をとりいれ、戦国時代にふさわしい堅固な城に改造したのです。
この場所は、当時の城下町(町屋)にあたります。街路整備に際して発掘調査を行なったところ、幅3.8〜4.5m、深さ1.5〜1.7mの堀跡が発見されました。この堀跡は、北側において4ヶ所で発掘されており、当地点より北に延びて昆陽口通りの手前で東に折れていることがわかっています。確認された堀の総延長は140m。村重の有岡城改造の一環で造られた防御施設の一つと考えられます。 |
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三軒寺広場のすぐ後ろに「伊丹の旧地名」の説明パネルが設置されています。 |
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伊丹の旧地名
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伊丹市の中心となった旧伊丹町は、有岡城の城下町から発展し、江戸時代は酒造りで栄えました。15の村が一続きになっており、その一つの伊丹村は、27の小さな町からなっていました。
この図は、そのころの町の姿で、城にちなむ大手町・外城村、商人や職人たちの活躍がしのばせる綿屋町・魚屋町・鍛冶屋町、牛頭天王社(猪名野神社)の門前にある天王町、昆陽村への出口にあたる昆陽口村などの名が見られます。この説明プレートが立っている北中少路村は、2筋東の本町通りより細い、”少路”に沿う村の一つです。
左側の図は、近代の伊丹です。大広寺・下市場・植松などの旧村名のほか、八幡・池ノ坂・雲正ノ上なども前代から引き継がれた名です。一方、宮ノ前・宮ノ下は、猪名野神社に、古城は、有岡城跡にちなんで付けられた新しい地名と思われます。 |
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石畳で舗装されている道路を北に向かって進みます、一つ目の信号(右に折れると「みやのまえ文化の郷」がすぐそこにあります。)を渡ると更に次の信号があり、向かい右側に「FMいたみ」が入っている商工プラザビル、左側に音楽ホールのアイフォニックホールのある信号が見えてきます。その通りが、大阪(伊丹)空港に向かう道路です。その信号を渡ると、猪名野神社への参道です。参道の突き当たりに神社の鳥居が見えてきます。 |
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猪名野神社
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猪名野神社は、有岡城の惣構えの城郭の北の砦でもあり、岸の砦(または野宮砦)と呼ばれていました。境内の北の隅には、今も境内左奥に砦の土塁の跡が残っています。
猪名野神社は金剛院の鎮守神と推定されています。
猪名野神社の門前町的に発展した 宮ノ前商店街は、伊丹で最も古い商店街で賑わっていましたが、旧阪急伊丹駅前商店街に、更には現在の阪急伊丹駅前の大型店の進出などで、寂れていき、飛行場線道路の直進化など再開発により、もう昔の面影は無くなっています。 |
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岸の砦跡
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有岡城は、伊丹台地の東縁の高台を巧みに利用した平城です。侍町、城下町の周囲を土塁と塀で囲み、町ぐるみを城塞化した惣構え構造で、南北千七百メートル、東西八百メートルの範囲に及んでいます。
要所には、岸の砦、上臈塚砦、鵯塚砦が築かれていました。
砦のうち有岡城惣構の北端に設けられたのが、岸の砦です。位置的に見て猪名野神社境内にその場所が推定されています。境内には土塁跡・堀跡が残されており、往時を偲ぶことが出来ます。
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ムクロジ
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市指定の天然記念物となっているムクロジ(無患子)が、社務所裏手にあります。
ムクロジは、ムクロジ科の落葉高木で、葉は偶数羽状複葉で、六月頃淡黄緑色の小花が円錐状に多数つき、果実は球形で中に黒くて堅い種子があり、この種子は羽根つきの玉に利用され、果皮はサポニンを含んでいるため昔は石鹸の代用に使われました。 |
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猪名野神社の奥左側に伊丹緑地に抜ける道があります。伊丹緑地への道を少し進むと右(東)側に降ります。猪名野神社の石組みに沿って南へ向かいます。今は道路が広く整備されていますが、少し前までは、狭い道でした。
左側にある公園を過ぎて左(東)に下りていきます。城郭遺構の境目辺りになります。しばらく行くと、突き当たりに右に上る坂道があります。上りきると、地下道の入り口があります。

産業道路(尼崎池田線)下の地下道をくぐって、反対側に出ます。
歩道を南へ少し行くと細い路地との合流点に出ます。この辺りが、その昔、伊丹郷町から北へ向かう出口だった「北ノ口」です。

右の北に向かう坂道を降りて行きます。公園が見えた辺りの左に入る細い路地との交差点にお地蔵さんがあります。その足元に道標があります。 |
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多田道・池田道道標
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立石地蔵の下に「京口の道しるべ」があります。
「右 京・池田、左 多田・久代」と刻まれています。
左の道を辿ると、多田道です。辻の碑を経て多田神社に向かいます。
右の道は、池田道で、西国街道を経て池田に向かいます。 |
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少し後戻りして公園を過ぎた辺りに、左(東)に降りる道があり、少し行ってすぐ右の路地に入ります。さらに突き当たりの細い道を左にとります。少し行って右側に上る坂道があります。ここでは高台を見上げる形になります。

その坂道を上って高台の方に出てみましょう。上るとすぐに道に出ます。左に曲がってマンションの前の道を右(南)にたどります。マンション行き過ぎた民家の間に路地があり、そこを左に入って見ます。
少し歩くと突き当たりにお地蔵さんがあります。

そこを左に折れ、更に右の石段で高台を下ります。右に曲がって、ゆるい坂を上りきると、広い道に出ます。飛行場線の側道です。

左に少し行って、飛行場線高架下をくぐって反対側に出て、右(西)に行き、最初の路地を左に入ります。ここでは高台の方を歩きます。途中で民家とマンションの間の高台との境目を覗き込むことが出来ます。
少し進んで左に折れ、やがて右(南)に曲がりしばらく歩きます。この辺りが湊町と呼ばれていたところです。そのまま進むと広い道に出て左の坂を下ります。これが雲正坂です。

そこから右(南)側が、有岡城跡です。阪急伊丹駅から出発した方は、有岡城跡を見学して下さい。 |
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有岡城跡
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14世紀ごろから、およそ300年にわたり伊丹氏が、猪名川の西岸に築いた伊丹城に居住しました。
戦国時代、天正2年(1574)伊丹氏が滅び、そのあと伊丹城に入ったのは、織田信長の武将荒木村重で、伊丹城は有岡城と改称されました。
村重が築城した有岡城は、城下町を城郭の中に取り込んで、東に主郭部分、北端には岸の砦、南端には鵯塚砦、西には上臈塚砦を配して、堀と土塁で囲んだ惣構えと言われる築城法でした。
その後、惣構え築城法は安土城、大坂城でも見られるようになりましたが、村重の有岡城は、それに先んじており、最も古い惣構え城の一つと言われています。
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有岡城跡のエスカレータを昇り、JR伊丹駅のコンコースを抜けて、反対側の階段を下ります。下りた所に、 があります。
駅から出て左に曲がり、さらに右回りで南に向かいます。
そこには、北側のダイヤモンドシティに向いたお地蔵さんがあります。
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石造地蔵菩薩立像
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この石仏は、昭和52年、旧国鉄福知山線複線電化の工事中に伊丹駅構内、地下約2メートルから出土したものです。
花崗岩の板石を舟形光背様に整え、その面に地蔵菩薩立像を刻んでいます。頭光には薄肉円光背を負い、左手に宝珠、右手に錫枝を持ち浅鉢形の蓮華座の上に立っています。像体は比較的肉厚に刻出されていますが、手・足首は細めでこれが全体として繊細な感じを与えています。尊顔は温和で、身にまとう地蔵独特の袈裟の表現は実に写実的である。錫枝頭はやや小さめですが、輪形内部を飾る五輪塔形は完好な形を保っているなど、総合的にみて極めて丁重な造りで、本地域における彫刻史上貴重な資料です。
その造立者、造立年代など不明であるが様式からみて、南北朝時代後期の作と推定されています。 |
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この辺りまで有岡城の主郭部分がせり出していたのですが、その昔JR伊丹駅が開設された折に、切り崩されて失っています。まことに惜しいことをしたものです。
その跡に小さな公園広場になっていますが、そこから見上げた忠魂碑の小山と線路で削り取られた辺りに天主土台があったと目されています。

JR宝塚線の線路沿いの道を南下します。その間、線路を挟んだ向かい側の高台を見上げることになります。この辺りには昔、桑津へ向かう道の出入り口がありました。

途中、線路際の民家を通り過ぎると、右側に線路をくぐる地下道が見えてきます。

地下道をくぐって真っ直ぐ進みます。高台に上る坂道の手前で、水路に沿って左(南)に折れます。まもなく、有岡小学校が左に見えてきます。

さらに高台下の水路に沿って進むと、大坂道から下ってくる三叉路が見えてきます。

さらに続けて高台下の水路に沿って進み、有岡幼稚園を過ぎたあたりで行き止まりとなり、その手間で右側に上る細い坂道が見えます。

その坂道を上って、民家の間の細い路地を抜けると、大坂道に出ます。

大坂道を少し南下すると、左側に大きなマンションが見えてきます。そのマンションの敷地内に鵯塚があります。少しこんもりとした部分がそうです。

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鵯塚砦跡
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(注意)鵯塚は、個人所有のマンション敷地内にあるため、見学は出来ません。
有岡城の南の砦で、城の南をかためました。また、その昔は古墳であったそうです。
有岡八景にもとり入れられ(鵯塚の暮雪)、また鬼貫の句碑もあります。
「鵯や世の囀も石の花」
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鵯塚は見学出来ませんので、塀越しに横目で見ながら通り過ぎます。さらに道は左に曲がりながら南下します。
やがてJRの踏切が見えます。踏切を渡ったところが杜若寺です。 |
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杜若寺
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万治三年(1660)開基。
周辺には杜若(かきつばた)が咲き乱れていたことから、豊臣秀吉が杜若庵と名付けたことが寺の名前の由来です。
境内墓地は伊丹で一番古い墓地と言われ、また、ここは江戸時代の刑場跡でもありました。
俗に焼野といいます。有岡城を取り囲んだ織田信長が焼土戦術に出て、この杜若庵も灰塵帰し、あたり一面、焼野原と化してしまったので、後世、焼野と呼ばれるようになりました。 |
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頼山陽撰書
大塚鳩斎の墓
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境内墓地にある頼山陽撰書の大塚鳩斎の墓は市史跡に指定されています。 |
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杜若寺の南側霊園の入り口左側に、大阪道・尼崎道道標が立っています。 |
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大阪道・尼崎道道標
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以前には、JR踏み切りの手前に立っていたそうです。その道標がここにあります。「南無阿弥陀仏 右尼崎、左大坂 道」と刻まれています。左側へ行くと大阪道、右側は尼崎道です。 |
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鵯塚の近くまで元の道を戻ります。
鵯塚のあるマンションを右に見て、左側の路地をに入り西北側へ向かいます。

産業道路近くの道に出ます。そこに見える水路が城郭の遺構に当たります。

産業道路に出て、歩道を北進します。途中、右(東)からの道を少し入ったところで遺構の水路が確認されます。(3ヶ所)



続いて、石組みされ段差のあるところが見えてきます。

産業道路(尼崎池田線)の拡幅工事で、正覚寺が移築されています。昔は本町通りが、以前の正覚寺で、行き止まりになっていました。
正覚寺を過ぎたところに、信号のある交差点があります。

信号を渡って、伊丹産業本社ビルを左に見て坂を下り、すぐに右の路地を入ります。
右側が石組みで相当段差のあるところを進みます。

しばらく北へ進むと、コンクリートで築かれた部分が見え、右に折れ坂を上ります。

坂を上った右側が墨染寺です。左側の伊丹シティホテル辺りが、上臈塚砦跡と推測されています。
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墨染寺
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天正年間(1590年頃)創建の曹洞宗の古刹です。
墨染寺境内にある荒木村重の墓と伝える九層石塔は、もと鵯塚の上に建っていたのを近世後期にここに移したと伝えられています。
また、鬼貫の父子墓や句碑があります。
「秋は物の月夜鳥はいつも鳴」
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女郎塚
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「女郎塚」碑は、有岡城落城により処刑された婦女子の供養に建立したと伝えられ、正面に「女郎塚」と草書体で、右側面に「天正七年十二月二十三日落城」と刻まれていますが、周辺には当時有岡城の砦「上臈塚」が置かれていた記録があるので、上臈塚砦に因んだ石碑かも知れないとも言われています。
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また元の道に戻り、路地を北進します。途中、伊丹シティホテルの前から下ってくる坂が見えます。伊丹シティホテル辺りに上臈塚砦があったのでしょう。

さらに狭い路地を抜けて大通りに出ます。

右に曲がって伊丹シティホテル前の信号を渡り、反対側の歩道を戻ります。向かい側の路地を右に駐車場を見て、路地を入ります。
さらに進んで、やすらぎの館の前を通ります。

三軒寺広場の入り口の辺りで、飲み屋街がある方の狭い路地を入ります。

路地を真っ直ぐたどっていきますが、その道筋の建物の境目が段差のある場所で、遺構跡だと感じられます。やがて、いたみホール前の交差点に出ます。
この辺りから、昆陽に向かう道の出口があったと言われます。

信号をいたみホール側に渡ります。さらに伊丹小学校側の歩道に渡り、北進します。反対側が段差のある石組みが、昔の遺構跡だと感じさせてくれます。 この道路に沿って昔は加茂井と言われた水路、後に城郭の掘割であったのでしょう。

伊丹小学校を外れたところから歩道が無いので、右側に渡り車に注意しながら北進します。途中、その昔、大鹿を経て中山、有馬へ向かう道の出口があったと思われる交差点を通過します。さらにしばらく行くと、猪名野神社に到着します。

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| 到着 |
猪名野神社
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猪名野神社は、有岡城の惣構えの城郭の北の砦でもあり、岸の砦(または野宮砦)と呼ばれていました。境内の北の隅には、今も境内左奥に砦の土塁の跡が残っています。
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ここで、有岡城跡の遺構巡りは終わります。
帰りは、猪名野神社の鳥居を出て、正面の石畳の道をたどり、三軒寺広場まで戻って、JR伊丹駅へは左、阪急伊丹駅へは右にそれぞれ進みます。
お疲れさんでした。 |